| trip | 2013年12月6日(金)

まるで旅をつなぐ旅人。

text_Ken Ono

ワイフの旅好き、オランダ好きは果てしがないのか、オランダへと出かけている。もう何度目になるのだろう、この旅では従姉妹と。

建築、デザイン、また教育など絶妙なバランス感覚で常に先行く感のあるオランダにはいつも興味深く注目している。

僕も何度か訪れ、行くと必ずなにかしら刺激を受けて帰ってくる。元来お家大好き出無精のぼくがはるか彼方オランダまで行けるのも、すべては旅好きのワイフのおかげ。

あまりにもオランダ好きを公言するものだから、まわりの人もオランダが気になるようになってきた。オランダって何?みたいな。

だから僕だけではなく、家族、親戚、その子どもと次第に連れていく人がひろがり、いつの間にか一緒に旅してくれる人みたいになってきた。

それはまるで銀河鉄道999のメーテルのような旅から旅へとつなぐ旅人といったイメージと交錯する。ビジュアル的にもメーテルと肉薄といった感じでしょうか。

おかげで、世界を旅してみたいという僕のただの妄想だったものを実現してくれる。

| house | 2013年11月21日(木)

薄氷というか皮膚というか。

text_Ken Ono

季節はめぐる。ガクン、ガクンと急激に気温が落ちていく。ついこのあいだまでは暑いくらい。グッドシーズンはショート、僅かなり。暑いとか寒いには敏感だけど、心地よいときはあまり意識しないから短く感じるということだろうか。

築百年を超える民家で暮らしはじめて、夏が過ぎ冬を迎えようとしている。夏の暑くなるほどに大騒ぎになっていく虫や動物たちも今は静か、空気の冷たさがより一層伝わってくる。

小高い山のうえ、伸び放題の木々に囲まれる家は、虫や動物たちの最適な活動領域で、それでいて寒さは厳しい。その感覚が、壁やガラスの薄さから肌に伝わってくる。良くも悪くも自然と一体になれる。

現代住宅の守られ包み込まれる感じからいえばむしろ剥き出しに近い。この壁やガラスは、ギリギリの状態で保たれている薄氷のように思えてならない。壁のすぐそこに虫がいて、ガラスの向こうは冷たい風。まさに生活空間の皮膚のようである。

祭りのような騒ぎだった虫や動物たちが休み、しーんとした寒さが何割増しかで際立つ。それでも意外と好きかも、この季節。不思議です。

| workshop | 2013年9月14日(土)

ホームページをつくる教室。

text_Ken Ono

ぼくデザイナーの小野は、プログラマーの三原とコンビを組んでウェブサイト制作、つまりホームページ作りに勤しんでいる。

miharaono.com で取り組んでいるホームページは、いずれもまたスタディ的、実験的な要素が多く、めまぐるしく変化するウェブ環境に遠からず近過ぎずでバランスをとってアップデートを続けている。

もちろん、ぼくたちも何も知らないゼロの状態からスタートして今日に至る。だからといって、何を成し得たというわけでもなく、ただ、次は何に挑戦しようという幸せは得ているように思う。

ますます進化するウェブ環境、SNSなど様々なサービスを利用することで情報を発信することは、日々簡単便利になっている。

それでもなお、自らのホームと呼べるホームページを作りたい、自らの意志で何かしら伝えたいという人の一助になればと、ホームページをつくる教室をはじめたいと思う。

| house | 2013年7月22日(月)

生物のひとつということ。

text_Ken Ono

築百年を超える民家で暮らしはじめて気付いたことがある。それは、ぼくら人間は生物のひとつということ。

小高い丘の上、木々はわっさわさと生い茂り、手入れというか手付かずで伸び放題。屋内と屋外の気温差があまりなく、内と外の境が曖昧でよく言えば自然と暮らしが一体となっている。

半屋内、半屋外という環境はなによりも代え難く、平安の世はこのやうであったろうかと思ひを馳せてしまうほどである。カラダ全部を使って呼吸ができているかのような感覚が気持ちいい。

しかし、それは反面、百年の歪みからくるものなのか家中隙間だらけの裏返しでもある。夏が近づくほどに、いろんな生物の活動が活発になり、隙間というスキマからやってくる。

そんな体験は、住むまでは思いもよらなかったが、同じ家を共有していて、たまたま僕らがそこにやってきたとも今では思うようになった。それでも出会いはいつも突然で、驚かないことのほうが少ない。まだまだ新参者である。

梅雨に入るまえの蟻からはじまり、暑さが増すにつれ、出会う生物がどんどん巨大になっている。もっと暑くなると、もっともっと大きくなるのだろうか。末恐ろしや。

| house | 2013年6月27日(木)

そのまま使う、現代的感覚の提示。

text_Ken Ono

どこまでをそのまま使うというのかはわからないが、壁をぶち抜いてとか、骨組みにして再生だとかではなく、姿はそのままである。

このたび引越しをした。そこは築百年を超える民家で、祖父が他界してからしばらく空き家となっていた。あとは取り壊しを待つのみとなった家だが、ぼくの幼少期の思い出と相まってとても愛おしく感じていた。

田舎ではあるが街からそれほど遠くなく、小高い丘のうえで景色もなかなか。今は草木がふさふさ、その景色も今後のがんばり次第ということで。

現在はモータリゼーションの進化で近く感じているが、小っちゃい頃は年に数回のかなり遠いところにある田舎という印象だった。

母に言わせてみれば、それは現在も変わらず、住むと決めたとき最後まで抵抗勢力であった。その不便さが身に沁みているのか、発せられる言葉は重く、築百年に住まうには相当の覚悟がいることを感じた。

それでも住むと決めたからには覚悟を示さなくてはならない。壊す予定のものに大きく手を入れるとなると、やはり壊したほうがいいのではとなる。思い出の姿のまま終えたいという気持ちもなんとなく垣間見える。

最小の変化で、住み継ぐことのバリューを最大にしたい。それは僕にとっても、これまでこの家に関わった人たちにとっても。百年の思いを背負って... ちょっと大げさに言ってみました。

やろうとしていることは至ってシンプル。百年の月日のなかで層のように積み重なったモノを整理整頓し、なるべく元の姿を取り戻す。そのうえで気持ちも新たに、磨いたりペンキを塗ったり、家の表面であるスキンを整える。

戸で仕切られていた空間は、カーテンを使って緩やかにつなぐ。冬の寒さはどうなることかと案ずるがこれから考えていこう。

イス生活の家具をそのまま持ち込む。畳には不釣り合いかと思うが、畳のポテンシャルの高さに驚くばかりである。むしろ築百年の民家の包容力であろうか。

家の本来持つ力を現代的感覚で引き出したい。それは民家の再解釈、再定義につながるかもしれない。思い出と照らし合わせながら変わっていくというのもまた楽しい。僕にとっても、またこの家に関わった人たちにとっても。

| house | 2013年4月16日(火)

最新のものは最古のもの。

text_Ken Ono

というのも、今まさにそれを、身をもって体験しようとしている。築百年を超える民家に越そうと思う。

祖父が他界し、主不在となった家はそのままとなり、思い出として醸成されるころ、あとは取り壊しを待つのみとなる。機能的にもアクセス的にも現代には不都合な面が多々あるのは確かである。

ぼくたちの親世代が不便に感じて、改善し、進化して現在がある。進化は止むことなく便利であることがあたりまえとなっている。非常にありがたい。

しかし、それを知らないことが恐ろしいことなのかそれとも最大の勇気なのか、築百年は古ぼけて、いや古過ぎて、とても興味深いのである。

ちょっと前に流行ったことが今は古く感じるように、新しいものはすぐ古くなってしまう。その繰り返しが続いていくのだが、青春時代に古く思っていたものが、ある時ふと新鮮に感じるようになったりもする。

とっても古くなって、逆に新しいのである。もう忘れてしまって新しいのである。知らなければ、きっとそれは新しい。

モダンとは何かとモダンファイブで探し求めて今、築百年を超える民家とどう住まうか対峙する。最も新しいことがこの古きもののなかにあるのではないかと。

| running | 2013年3月21日(木)

42.195km

text_Ken Ono

フルマラソン完走を成し遂げた。

42.195km、はじめてのフルマラソンを完走で終えることができた。なぜ走るのか。走ることとは無縁だった人間が、体調改善を求めて走り始めた。

フルマラソンを大いなる目標と掲げ、そのためのウェブサイト「走り美」をつくり、連動して走り続けている。総・走る距離は、6,000kmに達した。

フルマラソンを終えて、まず思ったことは「たのしかった」。30キロを超えたあたりから足はピタリと止まり、しんどさは増し、ひとかけらも楽しいところはなかったはず。

それなのにこう思えるのだから不思議でならない。2度、3度と続けていくと楽しいだけではとどまれないだろうが、今後もフルマラソン挑戦を続けていきたい。

確かに、体調改善は大きく前進した。走ることを志してよかったと思う。

倉敷に戻って、およそテンイヤーズ。走るだけでなく様々なことに挑戦しているが、唯一成し遂げたのはこのフルマラソンといえる。

ほんの小さなことかもしれないが、これを成し得るにも自分ひとりのチカラでは到底不可能であった。だから僕は、アイムプラウド 誇りに思う。

| running | 2013年2月22日(金)

なぜ走るのか。

text_Ken Ono

俺は走る。僕は走る。
なぜ走るのだろう。

フルマラソン挑戦を前に思う。

走ることとは無縁だった僕だが、およそ十年前、走ることに興味を持ちはじめる。それはここ倉敷に戻ってきた頃と時を同じくして、今思えばもう想像できないほど体調が芳しくなかった。

今後の人生を思うと体調改善、というより今生きることがままならない。だから走ることは必然だったのかもしれない。

いろんなスポーツがあるなか、ランニング。ひとりで出来る、ひとりでも続けられる。必要なものは、カラダひとつと走る道。そんな気軽さに惹かれたのだが、いざ始めてみると奥が深いこと途方もない。

おかげで 走る ことに付随して必要なことを知るほどに多岐にわたるようになった。天気のことがこんなに気になってたか、体のことにこれほど気を遣っていただろうか。

大いなる目標、遠い先に「いつかはフルマラソン」があるから頑張れる。体調を維持しながら無理のない、日常の延長線上にフルマラソンを走れるようになりたい。

そんな走りに到達できるよう、まずはハーフマラソンからとマラソン大会に参加している。それがとうとうフルマラソン挑戦にまで思いが至った。簡単なことではなかったが、それほど感極まるでもない。ちょっと意外。

走ることは終わらないし、これからも続いていくと思っているからだろう。日常の延長線上に 走る ということが定着したということか。

ひとりで出来ると思っていたランニングも、フルマラソンともなると、もうひとりのものではないし、ひとりでは達成できない。体調改善がきっかけではあるが、今や何を求めて走るのかわからない。

なぜ走るのか。
そこに道があるから。

| tool | 2013年1月29日(火)

何で書くということ。

text_Ken Ono

何でというのは何を使って書くかということで、書くこと自体は何を使おうが変わらない。数年前から何でという問いに直面し、書けない書かないという本末転倒な状態に陥っていた。

それは iPhone、iPad の登場と時期を同じくする。これからの「書く」は指先ではじまり指先で完結すると思い、キーボードから指先で入力することに移行した。

ところが、これまでのキーボードという環境に慣れているせいか思い通りに指先が動いてくれない。iPadなら画面も大きいし間違いないとしばらく続けたがどうもしっくりこない。

僕はすでにヤングではないということか。新しいことになかなか順応できない。えーい、こうなったら巡りめぐって一周まわって、紙とペンだ!

おぉ、素晴らしい。脳から手に伝わる感覚がやはり格別である。充電要らずでいつでもどこでも、消さずに上書きしたり思考の痕跡も残って常に進行形なんて。

そうこうしてるうちにタッチ操作のデバイスは世に浸透し、バージョンアップの速度も増して、いつの間にか僕もすっかり慣れているのだから不思議。

だから今、この「書く」もさらに一周して iPod touch で書くということに落ち着いている。

| think | 2013年1月17日(木)

書くということ。

text_Ken Ono

また書いていこうと思う。
というのも数年前にもこう思い立ったことがある。

モダンファイブというウェブサイトをつくり、自らの思いや考えを責任持って発言していこうと思った。それは今も変わらず、自分のなかで消化され、まとまった時点で不定期に綴っている。

気軽に書いて気軽に続けるつもりが、妙な壁やハードルを自ら課して、なかなか書けないでいた。

SNS全盛の現在、書くことや発言することがますます気軽になっている。そういった時流に抗うことになるかもしれないが、せっかくの僕という存在意義でもあるこのモダンファイブで、また書いていこう思う。