| music | 2006年12月30日(土)
オリジナルを問う。
text_Ken Ono
こう見えてスクラッチ好きの僕は、レコード店に行くとDJものの音楽CDのチェックに余念がない。基本的にカラダを使ってダンスすることはないが、脳に刺激をくれる、脳でダンスできる感じが好きでもう欠かせない音楽ジャンルのひとつとなった。
そんななかでこれ絶対はずせねぇってマスターピースでリスペクトして止まないのが DJ Shadow。このDJシャドウのアルバム「Endtroducing.....」きっかけでほとんど食わず嫌いだったヒップホップも今ではそれをすっかり忘れるほど自然と聴くようになった。しかもこのアルバム、全編サンプリングでつくられているというから驚いた。
音楽をサンプリングだけでつくる。過去に聴いたことのある曲、聴いたこともない遠い昔の曲、果ては誰もが知ってるヒット曲。それらの一部分を抽出して、しかもほとんど原形をとどめないほど極小に切り刻み、その音源をあっちへこっちへと組み合わせて誰も聴いたことのない音楽をつくりあげる。
いわば誰もが手に入れられるもので誰もつくりだせないものを音楽の世界で表現しているのである。出来上がったものを聴くと、それは誰の曲のものであったかなんて気にならない。だってそれはもうまったく新しいものに変容してしまっているから。
サンプリングという手法を使って公明正大にひとのものを使う。ひとのオリジナルを最大限に活用して自分のオリジナルをつくる。これをオリジナルといえるのか。
しかし、DJシャドウから生まれてきた音楽はDJシャドウでしかない。他のなにものにも代え難い。DJシャドウというフィルタを通って出てきたものは、それはもうDJシャドウそのものといえる。
なにかステキなものがある、まったく同じものを真似てつくろうと思ってもなにかが違うおなじものが出来上がる。同じリンゴ、形や味は同じでもなにか感じるものが違う。
さまざまな思考のプロセスを経て、そのひとのフィルタを通って出てきたものでしかオリジナルといえない。つまりある思考のプロセスを経たものは、それはもうオリジナルといえる。
DJシャドウという音楽はオリジナルの概念は何だったかなんてものをヒョイと飛び越えさせてくれる。
とにかくシャドウに魅せられてずいぶん前に購入した2台のターンテーブル。今はもう、ターンしてない。いや、ターン休止中と言っておこう。いつの日かあんな音こんな音がスクラッチできると信じて。
| think | 2006年9月5日(火)
個からの解放、そして開放。
text_Ken Ono
この半年のあいだにプロジェクトとして「走り美」と「プチモダン」をスタートさせた。
走り美に関していえば、体調改善のため整体に通いはじめて得られた劇的な体の変化と、それを通じて生まれた考え方をなんとか表現できないかと思い 走る ということにそれを求めた。
プチモダンのほうでは、かねてより世界と繋がる活動がしたいと願うワイフの旅好きがきっかけとなり、旅で見て 触って 感動した モノやコト、その思いを伝えられる受け皿・器のようなものを表現できないかと考えた。
主体となるワイフが写真を撮り文章を書くことに集中するには、いつでも変更可能な自由度の高い直感的なものにする必要性を感じた。その実現にはプログラマー三原康孝の存在が不可欠であった。
ホームページのレイアウト、コンテンツの追加・変更のプログラムを内製化することで、いつでもどこでもという直感に対応する自動化をすみずみに適用することが可能となった。
これまでこのモダンファイブでは一貫して「考える」ことについて考えてきた。自分とは何かと、考えを持つとはどういうことかとこれまた考えた。自分の考えというものをしっかり持たなければ大きく揺れ動く社会のなかで立っていられないのではと思い、今でもそう思っている。
自問自答を繰り返し限りなく個に向かう。しかし、個と向き合うことでその対極にあるはずの社会とも実は向き合っていると感じてならない。
モダンファイブにおいて個に向かい、向かうほどに道は狭くなり、また閉じていく思いに駆られることもある。しかし、そのプロセスがあるからこそ共同によって成立するプロジェクト「走り美」「プチモダン」があるといえる。それは個と向き合うことで得られる個からの解放であり、個からの開放とも言い換えることができる。
考えることを繰り返し、個と向き合うことで次なる開放、大開放へとつなげていきたいとまたまた考える。とはいえ、走り美ではより深く奥へと思うがあまり内容がストイックになり、解放というよりは解剖に近いのではと少々悩む。
| person | 2006年8月3日(木)
思考を繰り返し、発信しつづける。
text_Ken Ono
先日、倉敷美観地区のなか倉敷公民館に建築家・安藤忠雄がやって来た。地域で絶大な影響力のある大原家の記念講演会の講師として招かれたのだ。
300人ほど収容できる公民館のホール、決して大きいとはいえないこのホールに本当にやって来るのかと少々疑ってしまった。だって、なんといっても安藤忠雄ですから。ありがとう大原さん。
大原についてもう少し。芸術の面で倉敷に貢献しているのが大原美術館。収蔵された優れた作品群のおかげで戦火を免れたとか。福祉の面では倉敷中央病院。優良病院ランキングに常に名を連ねていて、何かあったらとりあえず中央病院の意識が僕のなかにすっかり定着してしまった。なにかあったら困るけど。アレコレとそれはもう多方面で、とにかく大原のチカラ偉大なり。
さて、初めての生ANDOということもあって「文化の力」と題された講演会に胸が高鳴った。どんな講演をするのか。本や雑誌で出会った情熱を巧みな言葉で止めどなく投げかけてくる印象と、たまにテレビで見るその情熱をすべて覆い隠すような関西弁の印象とのギャップが実際はどのように映るのか楽しみであった。
公民館の大ホールは収容できないほどの人が集まり立ち見もいれていっぱいであった。そして、生ANDOはオモシロかった。
「文化の力」という重いテーマを前にして、話のなかに終始笑いを忘れなかった。むしろ笑い8割、中身2割と言ったほうが早いかもしれない。油断していたら笑いのほうに集中して聞き逃してしまいそうなメッセージがたくさん散りばめられていた。
なぜ安藤忠雄がいつまでも若いのかわかるような気がした。もちろん見た目で60歳を超えていることはわかる。しかし他の60代とは確実に違う。それは何歳になっても思考を繰り返すこと、いつまでも発信しつづけることへの強い意志が体から溢れているからだろう。
たまたま座れた前から3列目の席でカリスマオーラをたっぷり浴び90分の講演はあっという間に終わった。すっかりのめり込んで終わる頃には体がホワーンとしてた。オーラ浴びすぎたかな。
しかし、文章で感じる切り口鋭いANDOと関西弁の安藤とのギャップは実際に会っても印象が変わらなかった。それがまた魅力ともいえる。世界に通じる安藤忠雄、世界に出ていくには外国語よりまず関西弁が必須なのかもしれない。
| book | 2006年5月24日(水)
時間を駆けてみたい。
text_Ken Ono
旅行のときは本を読むことにしている。ちょっと内容が重めでお腹にズッシリくる、パラパラというよりは噛みしめる感じのものを。
そのひとつに写真家 杉本博司 の「苔のむすまで time exposed」がある。数多くの写真作品が掲載されそれだけでも見応え十分であるが、写真作品と同質の、いやそれに余りある文章表現に思わず見入ってしまった。
はじめはムズカシめの言葉づかいと深い歴史にまでおよぶ内容に戸惑い、読み切るにはキビシイかと諦めムードだった。名前も作品もチラッと知っている程度では話のなかに入り込めないかと。作品のほうは、思い起こせばアートな島 直島 にある美術館で見たことがあるなとなんとなく頭のなかで繋がりはじめていた。
しかし、そのムズカシめの言葉遣いも深い歴史についても読み進めるうちに次第に心地よいものになってきた。写真作品の生まれてくるプロセスを紐解くには歴史は必要不可欠なものであり、またそれがそんな昔にこんなことがあったのかと面白く興味深い。
未知の知識を得ようと、未知の世界を知りたいと前へまえへと時間を進めている自分がいるのに、進むほどに歴史という過去に戻っていく。この不思議な感覚は写真作品を目の前にしたときの感覚に似ている。今なのに過去であり未来に向かって大昔にもどって。時間が往ったり来たりする錯覚に陥る。
これを旅行の最中に読んだものだから頭のなかはタイムトリップしたような気になってしまった。ドラえもんじゃないけど、タイムマシンがなくても時間を旅することができるかもと思えた一冊。
一瞬にして時間を静止させることができる写真、それに一瞬よりも長いながーい時間を感じるなんて、いやぁ不思議です。
| trip | 2006年2月20日(月)
移動に時間をかける。
text_Ken Ono
年明けに友人をたずねシンガポールへ行ってきた。ここ倉敷から移動距離も移動時間もできるだけ最短になるよう計画を立てていざ出発した。それでも移動には時間がかかる。
そのプランはというと、まず岡山にある高速バスの乗り場まで車で行く。この高速バス停近くに何日間かは無料で駐車できる駐車場がある。なまじ倉敷駅のバス乗り場を利用するより早くて便利である。
そしてそこから高速バスに乗り込み大阪難波へ、さらに難波からバスを乗り継ぎ関西国際空港へ。これが最短かといわれるとそうともいえないが、このプランの良さは重いスーツケースをほとんど持ち運ぶことなく移動できるというところ。いやぁラクチンでした。
あとは飛行機で待つはシンガポール。最終の到着までを考えると一日仕事である。つまり一日を移動で過ごすことになる。移動することだけに一日を使ってると思うとムダなことのように思えてしまう。
しかしこの移動こそが旅の醍醐味のように感じる。いつもにはない、日常生活にない時間がそこに挿入されるのである。いつもは観ない映画を飛行機のなかで観る。いつもは観ない内容重めの本を読む。いつもは喋らない話をワイフと喋る。
いつもにはない時間が訪れる。ムダなことのように思える移動時間に過ごした事柄が後に刺激となってかえってくる。移動に時間をかけるのも悪くない。むしろもっとかけるべきか。
それには体を鍛えなきゃ。一日移動すると体がくたくた。あぁ、もっと移動に時間がかけられる体が欲しい。