| house | 2004年12月6日(月)

ソファやテーブルを買うような感覚で家を買う!?

text_Ken Ono

無印良品有楽町店に行ってきました。アイラブ無印のわたくしとしましてはここへ行かずして語れません。どの店も置いているものは同じと言ってしまえばそれまでなんですが、同じものでも見せ方次第でここまで違うのかと思わせれてしまいます。有楽町店は他と一線を画す内装で全国店舗網もこれに追随してほしいと感じました。
そして何より圧倒されたのが、家をまるごと展示していること。しかもそれ相当のビッグサイズ値札つきで。店舗の大きさのせいか家自体は小さくこじんまりとした印象を受けましたが、無印らしいやり過ぎずやらなさ過ぎずのこれまた住宅メーカーとは一線を画すステキな家でした。ソファやテーブル、食器などと同じ店舗内にあるので、ペンやノートと同列の商品のような錯覚に陥りました。レジでついアレくださいと言ってしまいそうな勢いです。
この感覚、家の新しい販売方法としてアリだと思います。家は一生モノという重荷から解き放たれた感じがします。家具と一緒に、ついでに家を買う。東京発の新感覚ですが、むしろ地方向け、地方発信から東京へ逆流するほうがおもしろいかとも感じました。

| event | 2004年10月26日(火)

日常が非日常に変わる仕掛け。

text_Ken Ono

10月15,16日に倉敷市美観地区を流れる倉敷川で「夢あかり」というイベントが開催された。川に多数のキャンドルを浮かべて幻想的な空間を共有しようという内容だ。クラシックのミニコンサートなんかやったりして雰囲気十分でした。
特筆すべきはそのシンプルな演出だろう。キャンドルを川に浮かべてるだけじゃんと言えばそれまでだが、そのキャンドルを浮かべただけでここまで非日常的な空間に変化できるのであれば十分だろう。夜になりキャンドルに火が灯ると見慣れた風景が見たこともない世界に早変わりするのだ。上を見上げれば星空、下を見ても無数に散らばった灯りが水面に反射した星空のようにも感じられた。
非日常的な空間を演出する仕掛けとしてはいたってシンプルながら効果は絶大。星のきれいな川辺のある地域にはもってこいじゃないでしょうか。

| wedding | 2004年9月23日(木)

参加する喜びを感じる。

text_Ken Ono

先日、友人の結婚式に出席した。会場ではプロジェクターを使って映像を映し出す準備がされていた。プロジェクターがあり、それを使って表現することはいまや特別なことではなくなりむしろ表現方法として一般的になってきた。
ウェブデザイナーである彼は一歩進んだ趣向で僕たちを楽しませてくれた。ケータイで撮った写真をメールするとスクリーンに映しだされるという仕掛けをweb上に用意していた。さらに、スクリーンに一旦大きく映し出された写真はその後小さくなりゲームのテトリスのようにどんどん山積みされていく。肌身離さず使っているケータイの日常の延長線上なので誰もが参加でき楽しめることができた。
そして、本格的な映像、ムービーでも楽しませてくれた。本格的といっても使われている素材は、誰もが用意できるであろう出席している人たちと新郎新婦との思い出の写真である。この日のために撮られた動画もあるが昔のものを動画で取り直すことはできない。思い出の写真の連続、コマ送り、音楽との連動は静止画の可能性を感じることができた。
表現方法として先端を行くこれらの手法には技術力を上回る楽しさや参加への喜びがあった。おそらく出席した人たちはムービーの中に自分が登場していることに喜んでいただろうし、またその場の雰囲気を写真に撮ってメールする行為が楽しかっただろう。やっていることは最先端でも中身は原初的な人と人との触れ合いであるところに面白さがあるのだろう。

| idea | 2004年9月4日(土)

体感史上最大の台風に学ぶ。

text_Yasutaka Mihara / Programmer

夏休みも終わりが近づく8月30日、体感史上最大の台風が岡山県を襲いました。我が家から少し海よりに行った地域では避難勧告なんか出ちゃってたみたいで。家が吹っ飛ぶんじゃないかとビクビクしていました。
なぜかこういうときって家族に一体感が生まれますね。普段家庭では口数の少ない僕ですが必要以上に家族にしゃべりかけていることに気づきました。
災害の少ないと言われる岡山県では助け合いの気持ちが欠けているという話を聞いたことがありますがなるほどなと。外部からの明確な敵(台風)が、家族ひいては地域の人たちに助け合う心を生みお互いの存在に気づかせてくれるのかもしれません。
悪い面ばかりがクローズアップされる災害ですがいい面もあるんですね。助け合いの精神、家族の大切さを再認識できました。でもやっぱり災害は嫌だなぁ...

| place | 2004年8月20日(金)

時間を移動するエレベーター。

text_Ken Ono

アップルストア銀座店に行ってきました。アップル社製パーソナルコンピュータのマッキントッシュを使い始めてもうかれこれ、我が人生の3分の1ほどの付き合いになります。永遠のマイノリティーと思われたマックですが、ここ最近のiPod人気ですっかりメジャー入りを果たした感があります。マック大好きっ子のわたくしとしましては一度は訪れてみたい場所とかねてより思いを馳せておりました。
iMacの登場で限られた人の道具であったパソコンにデザインの概念を加え、生活の中に道具以上の存在感を与えたアップルが直営店でその世界観をどのように表現するのか気になるところでした。
行ってみると、期待を裏切られるどころかそれ以上の回答がありました。インテリア、案内サイン、そこにひろがる空間自体がマックそのものでした。
一番の驚きは自動巡回するエレベーター。上がるボタンも下がるボタンもなく、ゆっくり移動してはしばらくドアが開く。その時間の間隔にしばらく戸惑いましたが、エレベーターから出なくても各フロアを楽しめる時間の感覚に心地よさすら感じました。エレベーターは場所を移動する道具だけでなく時間を移動する道具にもなることを知りました。
トップアーティストがワンフロア使ってライブしてるところも、音楽で新しい活路を見いだしたマックらしい演出だと思いました。

| car | 2004年8月3日(火)

せっかくだからワクワクしたい。

text_Yasutaka Mihara / Programmer

クルマ買いました。クルマを持つのは3台目になるのだが、いままでの2台は人から譲ってもらったもので、自分自身でクルマを購入するのは初めての試みでした。多くのメーカーから数あまたある車種、色。この中から自分の一台を選択する・・・もしかしてクルマ選びってその人を最もよく映す鏡なのかもしれないな。そう考えながら僕の選択したクルマはグレーのスマート。ちっちゃくて2人乗りなくせに普通車で、外車という事もあってか値段の方も同じクラスの日本車の約5割増と機能面だけ考えるとかなり誤った選択のように思えるが、私はこの車に5割増の満足度を得ている。外見だけでなく洗練された内装。素材はチープにプラスチックでオモチャのようでもあるのだが、所々に遊び心が利いていてなぜか高級感を感じられるし、乗っていて楽しい気分になる。そういえば幼き頃クルマに乗るときはワクワクしたものだが、クルマに乗ることは本来そういうものなのだなと改めて感じられた。5割増のワクワク料は決して高くない。
普通の人なら人生で購入するクルマは多くて10台くらいでしょうか。その時々のライフスタイルもあるだろうし、価格の問題もある。そう考えると乗れるクルマも限られる。乗れるときに乗りたいクルマ乗っておかなきゃな。そう考えつつもたまに2人乗りでは不便になる時も。このスマートが2台合体!なんてできればなぁ・・・などとロボットアニメのような世界を勝手に想い描くが、クルマは安全面が第一なんだなと最近のニュースを見てつくづく思う今日この頃です。

| tour | 2004年6月19日(土)

倉敷観光を体感してみる。

text_Ken Ono

倉敷に住んでいるのに倉敷観光案内に参加してみた。いつも目にしているから知ってるつもりでも参加すると知らないことだらけでした。むしろ案内してもらわないと気づかないことでいっぱい。無知だとすぐそこにある価値ですら見逃してしまう。行ってみるもんですね。
とはいえ、誰に観光案内をしてもらえばいいのか。なんと無料でガイドをしてくれるボランティアの方々がいらっしゃるんです。おかげで気軽に利用することができました。いたるところで「へぇ〜」と感嘆の声をあげていると他の観光客が何だろうと気になるみたいでした。ちょっとした優越感にひたることもできました。
決して広いとはいえない美観地区、エンターテインメント性もあまりないので普通に周遊するとすぐに終わってしまう。観光に来てもつまらないと思う人もたくさんいるだろう。僕も正直そう思っていた。でも、歴史に触れ、存在理由を知ることで瓦一枚、釘一本にも興味を覚える奥深さが隠されている。
倉敷の町並は、芸術を愛好した大原孫三郎の功績で戦火を免れることができた。芸術って平和までもたらしてくれるんですね。すべての道はローマにつながる。倉敷の歴史は大原につながる....と言っても過言ではなさそうです。大原さん様々です。

| place | 2004年5月29日(土)

光を求めているのではないだろうか。

text_Ken Ono

倉敷に戻ってきてから天気をやたら気にするようになった。以前は太陽光を浴びることがあまりなく、太陽を感じることも少なかった。家を出て電車に乗り、地下へと潜り、地下街を上がってくるとビルの一角で仕事をする。そしてパソコンのモニターと一日中にらめっこ。
にらめっこ自体は今もあまり変わりないが、地下もなければ高いビルもないので自然と太陽光が注がれる。陽の光を浴びることがこんなにも気持ちいいものなのかと感動すら覚える。だから太陽の出ていない日は少々さみしい気持ちになる。雨が降らないと困ってしまうのはわかっているが晴れの日を多く望んでしまう。
倉敷の夜は暗い。街の明かりが少ない。夜になると倉敷のお店は早々に閉めてしまうのである。全国的に有名な美観地区もまさにそれである。夜、街を車や自転車で通ると正直暗すぎて怖いぐらいのところも少なくない。夜になると街はすっかり眠ってしまうのである。東京や大阪を「眠らない街」と呼ぶならば、僕は倉敷を「眠る街」と呼びたい。
しかし、街が眠ってしまうからといってそれが必ずしも悪いとは思わない。むしろ夜の静寂を手に入れることができ朝の訪れを楽しみに待つことができる。そして気持ちいい日差しが差し込むことを願う。倉敷という街は、明かりではなく光を求めているのではないだろうか。
観光地としても名高い倉敷、遊びに来るというよりは街と一緒に「眠り」に来ることをおすすめしたい。時間の経過とともに光の向きが変わり様々な表情を見せる倉敷の景観を楽しんでほしい。僕も住んでいると見落としがちなこの喜びを観光客目線でこれからも楽しみたいと思う。

| life | 2004年5月19日(水)

いい緑色をしている。

text_Ken Ono

5月のはじめ頃は晴れの日が多く汗ばむくらいの暑さだった。一日まとまった雨が降った明くる日、雨あがりのせいか、はたまたマイナスイオンが空気中に大量に舞っているせいかあまりにも気持ち良くて外に出たいという衝動に駆られた。そこで、ちょっと小高い山の上で一人暮らしをしている祖父を訪ねることにした。九十ン歳になった今も元気でやってる。近くに住んでいるくせに最近は足が遠のいていたのでいい機会であった。
山の木々は葉をしっかりと生え揃え、雨上がりの太陽をたっぷりと浴びていた。太陽光で反射した新緑がとても美しかった。それは美しいと言っても過言ではないはず。山のことを、葉っぱのことを、緑色を美しいと感じることを僕はすっかり忘れていた。長いこと忘れていたせいで逆に新しかった。そんなことで感動していると祖父が何気に語りかけてきた。「い〜い緑色をしとる、この時期が一番気持ちいい」と。九十歳を超えても自然との対話を忘れない姿勢。長生きの秘訣はそんなところにもあるのだろう。

| product | 2004年4月29日(木)

黒の衝撃!! 柳宗理のセラミック黒です。

text_Ken Ono

賃貸生活をはじめてからもうかれこれ。一人暮らし、結婚して二人暮らし、すこしづつではあるが住むところも向上してきている。賃貸といえどもフローリングに白い壁、十分キレイで清潔感にあふれていてウマクまとまっている。いままでに買いそろえた家具はどうやら素材に木が多いようだ。生活にやさしそうなアイテムを揃えたら、どうしても白くてウッディーなものが集まってくる。これでテーブルウェアまで白メインだったら生活にやさしすぎるかもとさみしく感じることもある。白からの脱却を図るため、この空間にどうしても黒のアイテムが欲しくなった。
そして、黒を探しはじめてようやく出会ったのが柳宗理のコーヒーカップ。そのセラミック黒。苦手だったコーヒーが僕にとって生活の一部になりつつあった頃で、この出会いはまさに衝撃的でした。手へのフィット感、主張しすぎないデザイン、価格への抵抗感も少ない。しかもデザイナーものなのにガンガン普段使いできるときている。これのおかげでコーヒーを飲むことがウレシクなった。今では毎日飲むくらい。生活感溢れた話を少しすると、黒って茶渋・コーヒー渋が目立たなくってメンテナンスしやすいんですよね。
コーヒーカップを皮切りに柳宗理ものを集めるようになった。黒だけじゃなく結局白も。買ってからもう何年も経つけど今だに元気にがんばってくれてる。飽きのこないデザインがまたいい。飽きたとしてもまたマイブームがやってくる。このフォーエバーな感じがいいんです。

| movie | 2004年4月8日(木)

私にとって映画は音楽のようなものかもしれない。

text_Chizuru Ono / Juku Teacher

何のジャンルの映画でもいい。いつしか映画の世界に引き込まれていく自分がいる。いつも夜中にBSで放映されている映画を眠いにもかかわらず最後まで見てしまう。次の日早起きしなくちゃいけなくても見始めると最後まで見ないとなんだか落ち着かない。どんなに古い映画でも、何語かぜんぜんわからなくても。
音楽とは違い聴きながら何かするというわけにはなかなかいかないが聴き流すような感覚で見流している。見ているようで考え事してる、考え事してるようで見ている。おかげで終わる頃にはなぜか「明日からがんばるぞっ」と決意を新たにしている。つまらないテレビを見るくらいなら、同じ映画を何度もDVDで流しているのもいい。生活に映画があることが楽しい。いつか、自宅映画館がほしいな。

| idea | 2004年3月30日(火)

共通の言語を持っていたいだけなんです。

text_Ken Ono

人生、日々勉強。何かはじめようとしては勉強し、何か問題にぶちあたるとそれを解決するために勉強する。知識をひけらかしたり、自慢したり、ウンチクを披露したいわけでもない。ではなぜ嫌いなはずの勉強をするのだろう。それはきっと様々な分野の専門家とおしゃべりするために共通の言語を持っていたいだけなんだと思う。アメリカ人とコミュニケーションをとるには英語が必要なように、専門家と話をするにはその分野の専門用語が必要となる。証券取引するにもパソコン使うにも女子高生とおしゃべりするにも、もちろんその世界の言葉が必要となってくる。
今年に入って、家族の病気を機に今まで興味すらなかった医学関連の本を読みあさった。それはお医者先生の見解に異論を唱えようとか、「白い巨頭」や「ブラックジャックによろしく」のように医学界にメスを入れたいわけではない。医者の診断を何のことかわからずただ受け身になって聞くのではなく、積極的に理解しようと努力したうえで正しく受け入れたいからである。そうすれば、何かしら次の段階が見えてくるような気がする。何も知らないまま、はいそうですかと聞き入れてしまうとそこでストップしてもう進めなくなるだろう。
ドラえもんが出してくれる道具のなかで一番欲しいものは?と聞かれたら「どこでもドア」と答えるけど、二番目は「翻訳こんにゃく」かな。自在にどこでもいける、自在にコミュニケーションがとれる....ドラえもんの道具ってホント夢がありますね。

| music | 2004年3月12日(金)

可もなく不可もないサウンドが欲しい時がある。

text_Ken Ono

頭の中をニュートラルな状態にしたい時、ただただ聞き流したい時、何かを始める前のプロローグとして....可もなく不可もないサウンドが欲しくなる。一音いちおんが、ボーカルの声が、脳まで到達することなく右から左へと自然に流れ生活環境にとけ込んで欲しいのである。
そんなときはCafeコンピレーションアルバムの先駆け的存在である「Cafe Apres-midi」シリーズをチョイスする。数あるCafeコンピものの中でも特にこのシリーズは音楽と一緒に詰め込まれた空気感がとても心地よく感じる。他のCafeCDと同じ選曲がされていても、同じ曲のように聴こえてこない。その違いは音のバランスがどうとか、ミックスの仕方がどうとか専門的な話なのかもしれない。実際にある東京のお店の空気がCDにそのまま詰め込まれているのだとしたらぜひそれを体感してみたいものである。
今や数えきれないほどリリースされているこの「Cafe Apres-midi」シリーズ。じゃあ、どこから入っていったらいいの....そう思ったらジャケットの色で決めるのもなかなかオモシロイ。太陽サンサンの時聴きたいからオレンジ色のものを、夕陽をバックに聴きたいから赤色のものを....音楽をジャケットの色で決めても意外に気分とマッチしてくれる。そんな選び方もできる気軽さがこれにはある。

| music | 2004年2月29日(日)

脳に刺激のあるサウンドが欲しい時がある。

text_Ken Ono

デザインする時、アイデアが出ず煮詰まってる時、文章をひねり出す時、考えがまとまらない時....脳に刺激のあるサウンドが欲しくなる。ただテンションを高めるだけのワイワイガヤガヤ、キンキンキラキラとした音楽ではなく、脳の奥のほうでダンスするような音楽が欲しいのである。
そんなときは決まってUKロックバンド「Radiohead」ものをチョイスする。特に3枚目のアルバム「OK COMPUTER」が97年リリース以来今でも聴くと必ず脳に刺激を与えてくれる。ロックバンドの枠組みを超えたその音楽性に衝撃を受けたことが思い出される。こんなに暗く切ないマイナーよりな音楽がメジャーヒットし全世界の音楽ファンに受け入れられたことにも驚いた。はじめて聴くと限りなくネガティブ志向に感じられるが、その奥に秘められたポジティブな姿勢が心に響いてくる。新譜を出す度に新しい何かを提示してくれる数少ないステキなバンドと言えるだろう。
僕が好んで聴いていると横にいる妻がたまに止めてくれと言ってくる。頭がチカチカ、ピコピコしてくるらしい。これは正しい反応だろうと感じる。Radioheadを聴くときはそのチカチカがたまらなく心地いい。

| life | 2004年2月21日(土)

声にはチカラがある。

text_Ken Ono

朝起きてまずはラジオをかける。テレビをつけるでもCDをかけるでもいいのだが、あえてラジオをセレクトする。テレビだと音声の向こうにある映像が気になってしまい動くに動けなくなる。音楽だけを聴いていたいなら自分の好きなCDをかければ済む。ラジオに求めているのはきっと曲と曲の合間を縫ってくれるDJの声だろう。
岡山県は大阪より西にあるから関西圏の文化が根付いてると思われがちである。しかも広島の隣だから「じゃけん」でしょ....とか。どちらも近からず遠からずではあるが、むしろ岡山の文化は東京よりではないかと感じる。なぜかというとテレビもラジオも主に東京発信の番組構成になっているからかな。ラジオは半分が東京って感じ。
それでも半分東京がウレシイ。交通情報が東京でもウレシイ。天気予報が東京でもウレシイのである。倉敷では使えない情報でも、聞き流しながら頭の片隅に語りかけてくれる話にふと感心したり納得させられることもある。あと東京のラジオは音楽とトークのバランスがいい。そこのところを地方局にも期待したいところである。DJのしゃべりは上手いし、そこに登場する素人もしゃべりが上手い。えっ、ほんとに素人なのって思ってしまうくらい。こちらのDJと素人のトークは聞き流すにも聞き流せないくらいたどたどしい時がある。聴いてる側が心配してしまう時も。
今を感じる音楽と今を伝える声を提供してくれるラジオは文明が進歩してもきっと残るんだろうな。だってケータイにわざわざラジオ機能をつけるぐらいだもんねぇ。

| life | 2004年2月10日(火)

すでに市民権を得ている。

text_Ken Ono

ついに導入してしまった....バスローブを。導入してまだ間もないが、いまのところ悪い点が見当たらない。バスローブと言えばブルジョワのみなさんの特権、キングカズの代名詞、バスローブを身にまといワイン片手に猫をジャラすといった世界を想像してしまう。そのイメージのせいか恐れ多くて手が出せないままでいた。
それでも店頭でよく見かけるようになったし、思っていたほどお高くもないし、これで悩みがひとつ解決できるならと手にすることにした。おかげで風呂上がりのタオルドライからパジャマへのいい架け橋になってくれた。あいだにバスローブを入れることで火照った体を冷ましてから着替えることができる。そして、子供ができて大きくなった時問題視される風呂上がりの醜い姿....これをさらさずにすむ。ただ、バスローブ姿自体嫌われてしまったら元も子もないけど。
バスローブを使ってることを誰かに言うと驚かれたりもするけど、実際使ってみるとなかなかいいもんです。あっそうそう、問題点がひとつ。バスローブってだいぶかさばりますね。バスローブ専用のクローゼットが欲しくなる。やっぱりブルジョワのみなさんの特権なのかな。

| book | 2004年1月28日(水)

季節感を体感していたい。

text_Ken Ono

ここ何年かで一番の寒さを体感しているような気がする。というのも、人類史上最高のエコカーと呼び声高い「自転車」をわたくし愛用しているため、その寒さと風を直に体で受け止めざるを得ない状況なんです。夏には夏らしい暑さを、冬には冬らしい寒さを感じていたいと好んでこの状況を受け入れているのですが、正直キビシイです。
長い賃貸暮しのせいか冬は寒いものだということを忘れていた。上下左右部屋と部屋で囲まれ、気密性の高い閉鎖的な空間のおかげで冷暖房の効きがよく、一年中快適な環境を保てる。気付いたら冬なのにTシャツになっていることもしばしば。
安藤忠雄著の「家」を思い出す。「住む」ことは厳しいことだと説いていた。そういえば小さい頃住んでいた家は隙間風ピューピューで室内なのに屋外にいるのかと勘違いするほどの寒さだった。その代わり、季節感をしっかりと感じることができていた。暖かい春を待ちわび、暑い夏から涼しい秋になることを喜んでいた。今よりももっと。
感覚が鈍くなりがちな快適性や機能性を追求することは人にとっていいことなのか悪いことなのか考えさせられる。季節感を体感していたい、自然と共存、共生していきたいと言っても、一度知ってしまった快適性や機能性を捨てられるのか....それはちょっと、ねぇ。

| tool | 2004年1月15日(木)

使い分けることが求められるようになってきた。

text_Ken Ono

年が明けて、新年の挨拶として年賀状が送られる。この年賀状に対して手書きのほうが温かみがあってイイとか、印刷だと手書きではできない表現ができるとか、熱いアナログデジタル論をよく耳にする。一字一字丁寧に手書きするアナログのほうが確かに文字から書いた人の感情が伝わってきて温かみを感じる。かといってデジタルで作られたものがすべて人間味を感じないものになってしまうのだろうか。印刷されたものでも印刷に至るまでのプロセスに多くの時間をかけ試行錯誤を重ねてできたものにはきっと人の温かみがあるはずだ。アナログであれデジタルであれ、何事も思いを伝えるという気持ちがそこにあるかどうかが大事だろう。
電子メールが世間一般化され始めた頃、将来ハガキは無用の長物になってしまうのかと思っていた。当時の未来予想図では確実にそういう論調だったように思い出される。ところが、今となってはむしろその逆でハガキの重要性がメールの登場によって再認識させられる結果となった。大切な新年の挨拶には、メールで簡単に済ませず、あえて手間のかかる年賀ハガキをセレクトするというふうに。
新しいツールの登場で過去のものを捨てて新しいものへ完全に移行するのではなく、昔からあるもののイイところを認識し、新しく生まれたイイものを受け入れ、それらを上手く使い分けることが求められるようになってきたと感じる。しかし、いろいろな手段を身に付けた現代人はただでさえ忙しい日々を送っているのに、こんなところまで気を配らなければならないって....そら忙しいはずだわ。