| design | 2009年12月27日(日)
D ラッピング
text_Ken Ono
(つづき)
そこでひとつ、こんなのはどうだろう。
「倉敷デザイン観光案内所」
倉敷には、倉敷美観地区の古き良き町並を楽しむ歴史観光、大原美術館を中核としたアート、美術鑑賞がある。新たにこれらとは別の視点で倉敷を見つめることになるがはたしてそれは必要なのだろうか。
デザインとは、生活のなかに溶け込み染みこむものだからそれを感知するには多くの気づきが必要となる。アートのように迫るような刺激は少ない。また歴史のように語り継がれるストーリーも多くは残されていない。
デザインを切り口として倉敷を捉え直すことで倉敷にどれだけデザインが根付いているのか確認できるし、またその活動によってデザインが生活のなかでより身近な存在になっていくのではないだろうか。
いざ始めるとなるとおそらく当初は内容もか細く頼りないものに感じるだろうが、デザインという華やかな言葉とはうらはらに地道な活動になることが想像される。
では、現状を維持しながら仮設的に活用する方法とは...
あからさまに仮設的で一見して変化が読みとれ、デザインの気づきに繋がるようなものが望ましい。鍵となるそれを象徴するものとして 色 に注目したい。
そのむかし、「燃えろ岡山」と銘打って晴れの国おかやまをアピールする催しが行われたことを記憶している。その頃ぼくは小学生で太陽が燃えている図柄が強く印象に残っている。
そのときの元気な印象が太陽のイメージと相まって オレンジ色 を想起させる。ここ倉敷も生活者の体感として確かに晴れの日が多く キーカラー をオレンジ色としてもふさわしい。
いっそこのオレンジ色で建物全体をラッピングしてみるのはどうだろうか。
倉敷エリアの景観保護の観点から実現可能性は限りなく低いが、一見して建物の変化が読みとれ、岡山また倉敷という文脈から導かれた 色 は街に違和感を挿入しながらも自然と馴染んでくるように思う。
そのラッピングもよく見ると A4 ほどのシートを細かく貼り付けたもので、まるで美観地区に多く残された歴史的建物に用いられ江戸の時代から続く なまこ壁 のようである。
また A4 シートはフレームに入れることで更新可能となりオレンジ色にとどまらず季節によって四季折々の色を建物は身にまとうことができるのである。ゆくはそのフレームを利用した A4 サイズのアートの競演というのもステキ。一面多種多様なアートに覆われた建物も壮観である。
倉敷デザイン観光案内所でゲストを迎えるのはモダン和装で身を包んだボーイズアンドガールズ、ご案内するのは地味で発見困難なデザインの気づきと想像は膨らむばかりである。
このデザインラッピング、D ラッピングを点在する他の休眠中の建物に展開していけば仮設ではあるが空のうえから街を見下ろしたときオレンジ色が太陽の元気なイメージとともにつながっていくのではと仮説をただただ考えてみる。
| design | 2009年10月27日(火)
仮説で仮設。
text_Ken Ono
ここ倉敷の通りにも活躍の面影を残しながら今は休眠中の建物がいくつかある。
近現代の象徴としてそのまま残るのもイイ。建てられて数十年ほどの建物の歴史的価値は不明であるが、確かに近隣の美観地区に多く残されている江戸時代の建物のそれには遠く及ばない。
しかしこの先10年20年と1900年代の姿のまま残っていくのならば、それはそれで歴史的価値というものが自然とついてくるのではないだろうか。
ただ、生活者としては新しい息吹がふきこまれることにやはり期待もする。それは建物が新しく生まれ変わるでも、そのままの姿でも、なにかしらの活気がそこにあると感じていたいからである。
建物を建て替えるときには力強さが、保存としての活動には繊細さが、どちらもそこで活躍する人々の熱気とともに伝わってくる。
なぜ人のいない建物ってあんなにも空虚に感じるのだろう。
人のいるいないで建物の体温のような熱が大きく変化する。人間に本来備わっているサーモグラフィーのようなものが敏感にそれを感じとる。
体温を感じとれない建物はやはりどこか物寂しい。人々は建物など空間を得て活躍の場を見出す。建物もまた人々の活動を内包して体温とともに地域のランドマークとしてそのシンボル性を放つ。
建物には新たな用途や計画がすでに進行していたり、また何らかの理由で手付かずのまま保留とされていることもあるだろう。外観からそれを推し量ることはできない。生活者に残されている自由はおそらく、現状あるがままの姿を見てあれこれとただただ「考える」ことぐらいではないだろうか。
そんな建物をまえに想像を膨らませてみる。
建物が建て替えまた保存のいずれかどちらに進もうとも現状そのままの姿で何かしらの活用方法がないものかと考える。
思い浮かぶ事例がある。
オランダ、アムステルダムに郵便局(POST CS)として使われていた建物がある(あった)。取り壊されることが決まっていたこの建物に、そのとき本館改装中であったステデリックミュージアム(市立近代美術館)が仮説展示施設として入居したのである。
仮設とはいえ美術館としての機能を備え、展示される現代アートと相まって劇的な空間へと変身していた。仮設であるがゆえの簡易性・更新可能性には恒久性をも超える強さがあり深く印象に残っている。
この仮設性に着目して現状を維持しながらの活用またその発展を図れないだろうか。
まず何として、何のために使うのか。このシンプルでもっとも原初的な問いは、このあと待ち受ける膨大な為すべきことをあれこれ考え出すと忘れ去られがちになるがもっとも大切にしたい基本概念である。
そこでひとつ、こんなのはどうだろう。
「倉敷デザイン観光案内所」
(つづく)
| design | 2009年3月29日(日)
デザインくらしき
text_Ken Ono
ぼくたちはくらしきでデザインする。
わたしたちはくらしきをデザインする。
くらしきとぼくらはデザインする。
デザインくらしき... なんて銘打ってひとつここ倉敷からデザイン活動をはじめたいと思います。
そう思い立ったのもそもそもデザインってもっと身近な存在ではないだろうかという思いが以前からあって、でも「デザイン」と聞くとその言葉の力の前でどうしても敷居が高く感じて萎縮してしまいがち。
ではどうすればデザインを身近なものにできるのだろう。ひとことでデザインといってもその意味その守備範囲は深くて広く、確かに途方もない。
なにをもってデザインとするか。その感性、表現方法、また捉え方はさまざまで人ひとりひとり個人差があり、その心理にまで到達することはおよそ不可能である。
ただひとたびデザイン界の重鎮にお出ましいただいたならば一刀両断、共有の価値観がそこに生まれることもあるだろう。
だからデザインとは伝達方法の歴史の積み重ねであると同時に個人レベルではいまだ自由が多く残されているといえる。
歴史に培われた制約はあるにせよデザインの自由を大いに謳歌すべきである。まずはぼくもここ倉敷でデザインの自由を享受したい。また、なによりデザインをつづけることで自然とデザインが身近になってくれないかと願っている。
倉敷は、東京や都市圏に比べるとおそらくいまだデザイン荒野で草木は根付くのかと懐疑的なところもある。
しかし、だからこそデザインはここにも根付いていると個人レベルの小さな点にはすぎないが声をあげること、いやデザインを用いて表現することに意義があるのではないかと思う。
ぼくは、現在活動している拠点が偶然にも倉敷から神戸・大阪方面または広島方面への分岐点となる交差点に面している。
残念ながら2階という弱点もあるが市内また市外の人が赤信号の停車時間にふと外を見上げたとき、あっ、くらしきは... デザインなのかぁ... なんて瞬間が生まれたらこの草の根的なデザイン活動も少しは根を張るように思う。