| think | 2007年11月4日(日)
続きがあるから。
text_Ken Ono
で、ユーは何を目指してるの?
ごくまれに聞かれることがある。そして僕はかならずこう答える。
次は、平面から立体へ移行したい...と。
つまり「家」への興味が尽きない。元来のインドアな性格と幼い頃から今につづく家体験がそうさせているのだろう。だからわかりもしない建築雑誌ケンチク本を和書・洋書を問わず手にしている。読み進めては止まり、再挑戦しまた離れていく。
どうすれば、どうやれば家は立ち上がるのだろう。考えてはみるが創造としてはとてつもなく大きなものに思えてくる。材料・工法・人・金...さまざまな諸条件が複雑に折り重なって出来上がるようだ。
今、目のまえに真っさらな土地を自由にしていいと差し出されたとしても怖じ気づいて何もできない。これに似た状況を、ホームページ作りをはじめた頃を思い出す。
目のまえにある真っ白な画面に何から手をつけていいのか、ただその白いのを眺めていた。今ではもうそんなこともなくなった。中身になるものがなくても、名前すらまだなくてもなんとかしてやろうと思えるようになった。
これまでの僕なら興味をもったことへ進んでいくときは、まず資格とか技能とかその習得から目指していた。これも間違いではない。専門的な知識が得られかならず役立つから。
しかし、今回は違うような気がしている。まず何がつくりたいか。本当につくりたいものがあるのか。とにかく今はこれに特化したいと思う。つくりたいものがあってはじめて次に進めるような気がしてならない。
ホームページ作りは雲をつかむようなボヤボヤとしたところから始まる。家に関してはまだその雲すら現れてくれない。技術的な話はやはり雲待ちということにしたほうがよさそうだ。
思わぬ収穫もある。立体に興味を持ち始めると平面だと思っていたものが頭のなかでは何層も重なってあたかも立体のように感じたりもする。またその逆もあるだろう。平面と立体の境界は次第に薄れている。
次への興味は現在の行動にきっと役立っているはずである。続きがあるから目の前にある小さな行動も大きな進化へつながると信じることができる。
| think | 2007年6月22日(金)
伝えたい気持ち。
text_Ken Ono
伝えたい気持ちがなければすべては空っぽである。
プチモダンではそんなひとつの信念にもとづいてウェブサイト制作に取り組んでいる。そして、そのプチモダンはワイフのこんなひと言から始まった。
オランダにつながるホームページが作りたい。
ある日突然、オランダという言葉が発せられた。とはいえ彼女のなかではいろんな準備を経ての あのさぁ、そういえばさぁ、オランダ ...なのである。
なぜオランダ。ホワイ、オランダ。
英仏独ヨーロッパ諸国メジャーマイナー数あれど、どうしてオランダなのか。それはこれまで生きてきたなかで徐々に惹かれていったから。テレビで見たあの風景、雑誌で読んだあの街、本で語られる世界でも一歩先行く教育。特に教育の観点からその気持ちは大きく花開いたようだ。
しかし、いまだ見ぬオランダ。一度も行ったことがないのである。ただ妄想だけは日々膨らむ。はてさてどうやってオランダとつながるホームページとするか。キーワードは、旅が好き、雑貨が好き、本が好き、そして カメラが好きになった である。
何を伝えるか、何を伝えたいか。
その前に、とりあえず行ってみる。とにもかくにも行ってみたい。膨らむ希望を胸にオランダのことを調べ出すもすぐに未知の国オランダの壁が大きくその情報を閉ざす。
街の情報も現地の交通情報もこれといった手応えが得られない。でも一度興味を持ってしまった以上もう戻れない、止まらない。良いのか悪いのかお得意のノンストップワイフここに登場である。
まずは、オランダのことを日本に伝えたい。
伝えたいことはハッキリした。オランダのことを調べて実際に体験し感じたモノ・コトを伝えることで、その前に立ち塞がる壁を少しでも低くしたいということ。
この先走り感も否めない知りたい気持ち、伝えたい気持ちを最大の武器としてプチモダンを始めよう。まだ何もない空っぽの状態だけど。
このときもうひとつの武器として、いましがた好きになったばかりのカメラがその威力を発揮する。写真は見たモノ感じたコトをその記憶とともに鮮度を失うことなく一瞬で画像のなかに封じ込めてくれる。
ときには目では捉えられなかったものを残してくれたり、ときには写っていることよりもたくさんの記憶を呼び覚ましてくれる。そしてこのことは、このカメラと記憶の関係はとても彼女向きで、また得意とするところであったと後に気付く。
だから写真を撮り、伝えたい気持ちを綴る。
この一点にチカラを集約させようと考えた。書きたいときに書く、書き直したいから書き直す、消したいものはすぐに消す、すぐはちょっと、それは緊張しながら。写真だって載せるも載せないも、入れ替えもまた自由。
伝えたい気持ちが熱いうちに即座にホームページにそのまま反映されるようなシステム作りにも取り組んだ。ウェブサイト制作の技術的な知識は後回しにしよう。僕だってたまにはこうやって書きたいことを書くが、書くことに集中できるのはとても気が楽である。
そのかわり伝えたい気持ちを失ったとき、すべてはゼロに帰す。書きつづける情熱や撮りつづける情熱がなくなった瞬間、プチモダンは空っぽになってしまう。実際、プチモダンから写真と文章を除くと恐ろしいぐらい何も、ない。
でもその心配はなさそうである。情熱は失われるどころか増す一方で、それこそ恐いぐらい、誰が呼んだか倉敷のリーサルウェポンここに登場である。
すべてはまだ始まったばかりであるが、最初に比べれば内容も増えたし深くもなってきた。もう空っぽとは呼ばない。そして、これからも伝えたい気持ちがあるかぎり、プチモダンは 0 から 1 にもなるし 2.0 にもなるだろう。
| think | 2007年4月25日(水)
さわれない手触り。
text_Ken Ono
ウェブサイトの制作に携わるようになって思うことがある。
ホームページというモニターの画面のなかでしか現出してこない信号にたいして、われわれは手の痕跡を残そうとしているのではないか。ただ、画面上にえんぴつで書いて消しゴムで消したような跡は残らない。いつもキレイさっぱり、美しい画面 である。
インターネットは始まって10年あまり、いつでも 誰でも 簡単に 情報にアクセスできる ということでその便利さゆえに急速に生活に溶け込んだ。画面を通して発信する側と受信する者が直結しているからこそ、それは成し得たといえる。
しかし受信する側のキレイさっぱり、簡便さへの追求に応えるには、発信する者の整理整頓された画面、情報発信への飽くなき追求が必要となる。
ウェブサイトには、動く画面でその動きのなかで情報とともに人を魅了する動なるサイトと、文字情報を中心にただひたすら伝えたい内容を的確に発信する静なるサイトの両方がある。動のサイトは一見して前衛的でフロンティア精神に溢れていると感じるが、静のサイトは少々おとなしくクラシックな印象を受ける。
ミハラオノで取り組んでいるのは、その後者で静かにそして時にはアツク簡便さへの追求に応えるべく努力を続けている。
では何をもってその画面に手の痕跡を残したといえるのか。それは受信する者がいつでも誰でも簡単に使うことができるホームページであると頭のなかで感覚的に理解したときである。ただ、それは一瞬の出来事であるし、また確かめる術はない。
だから、その感覚に到達するよう、あぁでもないこうでもないと思いを巡らせ、その可能性をあらゆる角度で辿ってみる。静かに何度でも。
そんな静のサイトでもアツイ部分がある。それは、静のサイトを静たらしめるミハラの担当するプログラムの領域である。水上では美しく優雅な白鳥も水面下ではバタバタと一生懸命足で水をかいている、まさにあんな感じである。
何千行にも及ぶプログラムをひとつひとつ自ら組み上げることで静なるサイトのその成り立ちを把握することが可能となる。原因を追求でき、また試行錯誤のプロセスは成果となって現れる。その歩みは緩やかではあるが確実である。
ホームページというモニターの画面のなかでしか現出してこない信号にたいして、われわれは発信する内容の整理整頓に思考を巡らせ、また整理された情報として簡潔なカタチでそれを構築することに挑んでいる。
画面上にはけっして現れてこないし触ることもできないが、その繰り返しに手の痕跡や、さわれない手触りのようなものを感じてやまない。
| music | 2007年2月6日(火)
脳がダンスする。
text_Ken Ono
脳がダンスするといって DJ シャドウ につづき、これ絶対はずせねぇってマスターピースでリスペクトして止まないのが PORTISHEAD。
このポーティスヘッドの同名アルバム「PORTISHEAD」をレコード店で試聴したときの衝撃たるやいまだ忘れえない。あれが10年前のことだから混沌の90年代を象徴するかのようである。
バブル後の日本は失われた10年とよく表現されるが、90年代は次世代に向けて変化することを受け入れるための素地がつくられた期間であったと感じる。
21世紀に入ってからは一方向的に突き動かされるというよりは、コッチを向いてもアッチを向いても、駆け抜けても立ち止まってもなんでもアリ感が生まれてきたように思う。
60年代、70年代、80年代と積み上げられてきたものを90年代で一度グチャグチャにして、新しい世紀を迎えて今それが再構築されようとしている。
グチャグチャにして再構築、グチャグチャにして再構築、グチャ再構築... このグチャサイコーを初期に印象づけたのがポーティスヘッドであった。こんなのアリかと、こんなのメジャーシーンにでてきて、みんなを虜にしちゃうのかと。
脳がダンスする。こう見えてダンスしなさそうでやはりダンスしない僕は、脳に刺激的な音楽を聴いては想像の世界で相当なダンスを披露している。
脳がダンスすることを確信したのが、このアルバムの完成をもって行われたライブのビデオを観たとき。これがまたメチャサイコーなわけで。
オーケストラとバンドメンバーと、座っているオーディエンス。座っているオーディエンス。観客はお座りになっているのである。このシチュエーション、脳でダンスすることなくしてどう盛り上がろうか。
アルバム2枚を残してとんとご無沙汰のポーティスヘッド。もう活動してないのかな。何度聴いてもいまだ色褪せない。もし叶うならばライブを一度観てみたい。それまでにはダンスの練習をしとこう。ボックスとか。